NARUMI BASEBALL STADIUM
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- 鳴海球場
名鉄自動車学校が建つ前に存在した、
歴史ある野球場
日本で初めてプロ野球が行われたことで有名な「鳴海球場」。
名鉄自動車学校は鳴海球場の跡地に建てられた学校で、
校内には記念ホームプレートが設置されています。
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鳴海球場建設
大正末からの野球熱の高まりにより、名古屋にも大球場建設の気運が高まるなか、
愛知電気鉄道(現 名古屋鉄道)が沿線開発として、昭和2年10月に鳴海球場を建設しました。
「東の神宮、西の甲子園に負けない本格的な球場を」という概念の下で設計された鳴海球場は、
収容人員22,500人、両翼106m、センター136mの広さで、甲子園球場を凌駕するものとなりました。 -
最盛期の鳴海球場
鳴海球場の開場後、中等野球大会(現在の高校野球大会)の予選はすべて鳴海球場で行われるようになり、中京商業が甲子園の全国大会で3年連続優勝の記録を立てて以来、東海野球王国のメッカと呼ばれるようになりました。
昭和6年にはルー・ゲーリック、昭和9年にはベーブ・ルースら全米選抜チームが来日し、ますます市民の野球熱は高まっていきました。昭和12年には収容力増のため内野両翼に3,000席ずつを拡充し、まさにこの頃、黄金期を迎えていました。 -
プロ野球が初めて
試合昭和9年職業野球「巨人軍」が誕生、昭和11年名古屋にも「名古屋軍」と「金鯱軍」が誕生。昭和11年2月9日 日本で初めて「巨人軍」と「金鯱軍」のプロ野球の試合が行われました。
昭和11年2月9日の試合結果
- 第1試合 巨人軍 3×10 金鯱軍
- 第2試合 巨人軍 8×3金鯱軍
- 第3試合 巨人軍 4×2金鯱軍
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戦争時の鳴海球場
昭和16年に太平洋戦争が始まり、中等野球大会の中止により閉鎖を余儀なくされました。
戦争が厳しくなったため、昭和18年には政府の金属回収が強化され、バックネットや鉄傘が軍に献納されました。
球場は高射砲陣地の弾薬置場となり、グラウンドは手入れされる事なく雑草が茂った状態でした。
戦後、昭和21年からプロ野球が復活し、地元中日ドラゴンズのホームグラウンドとして使用されましたが、
米国空軍が優先使用していたためスケジュールを立てるのに苦心したといいます。 -
変わりゆく鳴海球場
昭和23年、名古屋市内に中日スタヂアムが完成。プロ野球はすべて中日スタヂアムに移ることとなり、鳴海球場は高校野球の県予選を行う球場となりました。
昭和26年スタンドを大改造し、収容人員40,000人のプロ野球公式規格の球場になりましたが、年々観客動員は減少していったといいます。
昭和33年8月、ついに球場廃止宣言、10月に閉鎖となりました。 -
自動車学校に生まれ変わる
昭和32年道路運送法が改正され、名鉄本社ではバス乗務員養成の教習施設及び自動車整備士の養成施設をつくる必要に迫られました。
将来の市場性も踏まえ、昭和34年4月、現在の名鉄自動車学校に生まれ変わります。 -
記念ホームプレート
を設置鳴海球場誕生80年を迎え、教習コースの全面リニューアルを機に平成19年2月9日、
当時のホームベース跡に記念ホームプレートを設置しました。